1年間のどんな季節よりも、季節の変わり目が好きだったりする。
秋から冬に変わる時、冬から春に変わる時。
一瞬しか顔を見せないからこそ、余計に。
そして案外人は季節が変わった瞬間に気づくもので、外に出て空気の匂いが変わったとわかるあの瞬間が懐かしい気持ちにさせて、好きだなあと思ってしまうんです。
久しぶりに頭がしゃべっているので、こういう雑談みたいなものを書きたくて文字を打ち始めました。こういうのはtumblerに書くべきものなのかもしれないなあと思いつつ。最近書き残す場所が迷子になり始めてる。怒涛の年末更新だって、ああいう脳みそから直結してるような言葉たちはtumblerでしょう?なんて思ったり思わなかったり。
季節の話から派生して。
過ごしやすさという意味でずっっっと冬が大好きだったけど、暑いからという理由で忌み嫌うほど夏が嫌いだったけど、夏という季節に風磨くんが登場するのなら、もっと言えば夏という季節がきみになるのなら、どんな季節よりも夏が一番かもしれないとか思ってしまいました。
”これから先、夏が来るたびに好きになったことを思い出すのなら夏も悪くないな”なんてことを好きになった時から考えていたけれど、それはあくまでも”好きになったことを思い出す”だけであって。だけどなんだかもう、その範囲を軽々と飛び越えてきたというか、思い出すとかじゃなくて、もう、ふうまくんが夏。夏そのものがふうまくん。いやなにを言ってんだって自分でも思うけど。
好きになった季節を一旦抜きにしてもふまパラといい、時かけといい、風磨くんはやっぱり夏の人で。毎年夏が来ると喜んでるし、夏の終わりが見えると寂しそうにするし。そう、夏が似合うひとなんだよ。そんな風磨くんをどうして私は夏真っ盛りの8月に好きになってしまったのだろうかと。どうして初めて会えた日が七夕なんだろうかと。好きになるタイミングなんて他にもたくさんあるし夏じゃなくても可能性なんて十分あったはずなのに、ピンポイントで夏。あまりにもよくできた話で、運命なんてないのに勝手に運命めいたものを感じて泣きたくなってしまう。
夏の金髪姿を見ると勝手に恋が始まるし、チャラそうにしか思えない見た目にどうして好きになったんだろうかともう、n回目ともなることを考える。いやもともと金髪は好みなんだけどさあ。あのパリピみたいなビジュアルで、突然恋に落ちたように好きになった自分がずっとわからないよ。もう一生わからないので一生悩んでいてください。
季節そのものが自担になってしまったら、いつかさよならをした時が来たとしてもずっとずっと引きずりそうだよねえ。そういうおとこだよねえ。ふうまくんって。
とうとう季節にまで自担を置き換えてしまいまして。
こうして逃れられなくなっていくんだろうなあと一抹の恐怖を覚えながら、締め。