この前、ふと思い出して[Alexandros]のOblivionとKidsのMVを見ました。
どちらも中学生と高校生の頃によく聴いていました。
将来に迷った時に何度も聴いて、そのたびに救われてきた特別で大切な曲でした。
でももう、あの頃の私はいなくて。
同じ夢は抱いていないし、ドロスへの好きも変わってしまった。
当時の気持ちが深く刻み込まれた音楽を、今の自分が聴くことはできないとずっと思っていました。”できない”というよりは”許されない”の方が正しいかもしれません。もっと言えば、”思い出すから聴きたくない”が本音だったかも。
でも何かに引き寄せられたかのように数年ぶりにMVを見たら、泣いていました。
日々は過ぎ去るけど振り返る必要はない
だって未来にしか興味がないから (Oblivion/和訳)
高校生の頃も救われた歌詞です。
あの頃は『未来』に何を重ねて聴いていたんだっけな。高校卒業後の進路かな。もっと先の夢の話かも。好きなものを手放すことに怖さも躊躇いもなかった、まっすぐで、まぶしくて、蒼かったころ。
強くあれ 勇敢であれ 年老うことを恐れるな (Oblivion/和訳)
そして初めてこの歌詞が刺さりました。今まではなんとなくでスルーしてしまっていた場所です。
君の哀しみの下に隠された光が放たれることを願う (Kids/和訳)
でも何よりもKidsのここの歌詞で泣きました。全部グサグサ刺さって泣いてたけど、この歌詞で胸がいっぱいになった。
ジャニーズという名のアイドルを好きになって早2年半ほど。同じタイミングでドロスが3人になって、私のドロスに対する気持ちも変わっていって。これについてこの2年半ずっと、幾度となく考えてきました。
サトヤスが正式に勇退するまでの2020年の1年間も、勇退ライブを終えてリアドが入ったあの数ヶ月間も、そこから風磨くんを好きになって 私のジャニオタ人生が本格的に動き出してからも、常に頭の片隅には[Alexandros]がいました。ドロスへの好きを手放してしまった気持ちがずっとあって。好きでなくなってしまったことを後悔している自分がいるというか、申し訳なく感じていたというか。
アイドルを好きになった今の方が幸せだ、好きになれて良かったとちゃんと思えるのに、同じくらいバンドを好きだった頃を羨ましく思う瞬間が多くあって。今だけを見ていてほしいのに、何でも過去と比べてしまう。今の方が楽しい?あの頃を羨ましく思う?って、事あるごとにに過去の自分が顔を出す。比べるものでもないのにそういう自分がいつまでも消えてくれなかった。
気持ちが常に後ろ向きで、矢印の向きが全て過去。
今を好きになる方法をずっと探していました
だからこそなのか、アイドルを好きになって幸せをもらうたびに今を好きになれる理由が少しづつ積み重なっていく気がして、心が暖かくなって泣きそうになりました。
だけどさっきのOblivionとKidsの歌詞を見た時、
もうドロスを聴かなくなってしまったことや、好きのかたちが変わってしまったこと、アイドルを好きになったこと、想像していた未来ではない全く違う今を生きていること。手放したんだ壊れてしまったとばかり思っていたいろいろに対して、「それでいいんだよ」って言われた気がして。
今の君が君らしく生きているのなら、それが正解なんだよって言われた気がして。
変わってしまった、もう戻らない、といつまでも過去を見てはウジウジして立ち止まったままの私の背中を、後ろからトンと押してくれたような気がしました。そうだよね、私にとってドロスってそういう存在だったよね。
一言では到底表せないさまざまなことを、ひたすら考えては言葉にしてを繰り返して2年が経ちました。
やっと、やっと、やっと。着地点が見つかったかもしれません。
未練がましい思いはどこかで割り切らないといけない。引き際に気づけず、惰性と未練だけでついていく気持ちはやがて執着に変わる。やっぱり私は今の[Alexandros]を好きにはなれそうにありませんでした。サトヤスがいた4人を思い浮かべて寂しくなってしまうし、悲しくなってしまう。変わらないでいてほしかった、4人でいて欲しかったと、変えられない過去に嘆いてしまう。
去年の1年間、辛くても前向きに彼らを応援していたのは、好きかどうかの自分の気持ちよりも信じていたい気持ちが大きかった。信じてみたかった。
でもやっぱり戻らない時間を愛おしく思ってしまう。
だから思い出に蓋をします。
2年半前の現実逃避とは違くて、ちゃんと宝物になるように。
離れてしまった音楽と出逢い直して今の私が救われた時、崩れてしまったものを救ってくれるものも、同じものなのかもしれないと思いました。きっとこれからも気付かないところでこうやって救われ続ける。
それこそが、私が[Alexandros]と出会った意味なんだろうな。