ひとりごとの記録

主に音楽、アイドル、菊池風磨くんのオタクのひとりごと。

自分の幼少期を振り返る

最近友達と話していて何か話題が出るたびに、あれも知らない、それも知らない、だけどこれも知らないとなることが多くて、挙げ句の果てに友達からは「いったい何を通って小さい頃過ごしてきたの?!」と問われる始末。

いや自分でも思いました。ディズニーとかジブリとか、ポケモンとか、小さい頃になんとなくでもいいから大抵の人は触れているであろうものを私は何も知らない。本当にかじったこともないレベルで何も知らない。

 

まじで私、いったい何をして幼少期を過ごしてきたんだ?と。

 

ここ最近の脳内会議のテーマでした。自分でも気になるレベルでエンタメの一般教養を身につけていないので、普通に気になった。そしてそれに対して一切の疑問も抱かず、カルチャーショックたるものを受けることもなく、ここまでのほほんと生き延びてきたことも疑問。なので答えが出たのかはわかりませんが考えてみました。

 

 

まず私は小さい頃からリビングでテレビを見ていた記憶がほとんどありません。ご飯を食べている時は別として、たとえば学校から帰ってきて夜ご飯ができるまでとか、お風呂から上がって寝るまでの時間とか。何をしていたかというと、ずっと自分の部屋でコピー用紙に漫画を描いていました。はじめに言っておきますが、私が小学生の頃のいわゆるおうち遊びの記憶はほとんどこれです。

これは家庭環境も大きく関わってると思いますが、私はありがたいことに6歳の頃から自分の部屋と勉強机を与えられた子供でした。当たり前ですが自分の部屋があるんだから自分のものはそこにしまいなさい、というふうに育てられたため、リビングに自分のものが何か転がってる、ということは昔から全くありませんでした。

そうすると、必然的に自分のものが全て揃っている自分の部屋に篭るようになるわけですね…。

とは言え見たいテレビがあったりすればリビングで過ごしていてもおかしくないはずで。なんですけど、先程も書いたように私は自分の勉強机でひたすら漫画を描いているような子供でしたので、リビングにやってくることもないと。(自分で書いてて寂しいというか親泣かせな小学生すぎる)

 

そもそも私が人生で一番最初に興味を持ったものが、『絵』であり『少女漫画』でした。自分の中で一番古い記憶は、広告の裏に漫画もどきを描いている記憶です。

いわばそれだけに興味があって、それだけで過ごしてきたので、他のものに目もくれずずっと漫画だけを描いてきました。ちゃおを読んでは漫画を描いて、読んでは描いて読んでは描いて……信じられないと思いますがひたすらそれだけを繰り返していました。

 

ほかに唯一挙げるとするならばDSもやってました。これは私の中で有名な話ですが、私が視力を落とした理由は遺伝でもなんでもなくて、ただのマリオカートのやりすぎです。一応それくらいやってました。欲しいソフトをいつでも買ってもらえた家ではなかったので、誕生日とクリスマスの年2回に買ってもらえるくらいで、持ってるソフトは本当に少なかったと思います。

でもだからこそ一つのソフトをベテランの域になるまでやり続けてました。Xボタンが埋没するくらいマリカはやったし(長押ししてればカートのお尻にアイテムを固定できるから)、わがままファッションは売上金額がハンパないことになってたし、トモコレに関しては友達の数を増やしすぎてマンションの大きさがとんでもないことになってた。

 

このゲームの話とどこまで因果関係があるかはわかりませんが、私は昔から一つのものをずっと好きでいる癖がある気がします。漫画もそうだけど、気に入ったものや自分が好きな何か一つだけでずっと遊び続けるというか。それだけに興味を注ぎ続ける性格があるから、それさえあれば他に何も興味を持つことが無いんです。そしてそれが漫画だったから、ほかに何も興味を持たなかった。

頑固なのか一途なのかはわからないけど、たとえ周りの友達が違うものにハマっていたりおすすめをしてくれたとしても、自分の中のお気に入りを見つけたらまったく揺るがない性格が実は昔からあったのかもなあ、なんて考えたりしました。

そして自分が知らない遊びを友達がやっていたとしても、「知らないから教えて」とか「私もやってみたい」って言える子供じゃあなかったというのも、触れていた文化にひどく偏りがある理由だと思います。

そこには『自分が大好きなものがちゃんとあるから別にいいや』っていうませた自分と、『引っ込み思案で知らないことが恥ずかしくて言えない』っていう2つがあったからだと思うんですけど。小学生の頃の私は「知らないならいいや」、「できないならいいや」、「自分ができる好きなことをやろ〜っと」みたいな人でした。多分「それわたし知らない」みたいな瞬間は多かれ少なかれ絶対あったと思うんですけど、そういう時は静かに去ったり()黙って聞き手に徹したりと、多分うまいこと交わしてきたんでしょうね。

 

でもこれは今の私にもとても繋がる話で。一つのものをずっと好きでいるのは変わらない私の特徴です。図鑑とかに私の特徴を書かれるとしたらマストで載るでしょう。

私が一番好きな漫画は『好きです鈴木くん!』なんですけど、連載が小4〜小6終わりまでとかなり長かったのもあって読んできた漫画はそれだけだというのをこの前話したら、「それだけ!?」と驚かれました。続いて一本集中なんだね、と言われたのでそうですと心の中で返しました。読み返してるのもあって、今でもセリフやシーンの暗記はもちろん何巻のどこら辺かもパッと言えるくらいには好きです(キモいと引かれたけど)

 

ここからは若干の余談に入りますが、幼少期を振り返るという意味で書くならば、私は小さい頃からめちゃくちゃ想像力と妄想力がある人でした。

それが漫画につながったのか、はたまた漫画が好きだったからそうなったのかはわかりませんが、おそらく想像力は生まれ持ったものだと思います。

 

小さい頃から頭の中にもう一つの世界ともう一人の自分がいて、だからもう一つの名前もちゃんとあって、現実とは別で頭の中でずっとそれが動いてる。もう5歳くらいからそんな感じでした。

そこに漫画というカルチャーが重なって、実際にお話として現実に出てくるようになった。セリフというものを知って、頭の中で喋っていた言葉が実態を持つようになった。私の中にずっと宿るポエマーは少女漫画から来ています。

漫画に限らずとにかくずっと物語を考えていることが好きで、これも変わらず今の私にもあるものです。自分で考えた物語はもちろん、音楽を聴いて話を書きたくなってしまうのも、想像力や妄想力からきているんだと思います。中学生の頃に歌詞からイメージを膨らませて美術の作品を作ったのも、多分想像力から来てます。

だからなのかわかりませんが、私は昔からめちゃくちゃ独り言が多いです。言葉にはならずとも、頭の中で何かをひたすら考えていることが好きなので、脳内はずっと喋ってます。だから自分からこんなブログを書き始めたし、Twitterも大好きなんでしょうね。

思い返せば私が一番最初に得意だと認識した教科は作文でした。作文を教科と言っていいのかは微妙だけど。国語が好きだったし、特に作文を書くのが好きだった。まあこれもわからないけど、なんとなく繋がっているなあなんて思ったりします。

 

 

つまるところ、少女漫画と想像力だけで過ごしてきた幼少期ということになります。これだけ見たらやばい腐女子に育ちそう。もうすでにヤバいオタクだからいいや。でも漫画・ポエマー・想像力・作文・趣味に対する一途さ・妙な頑固さをかき混ぜたら今の私が生まれそうですよねアハ、アハハ……あと地味にある記憶力もなんなんだろう……

何か一つのものを飽きるまでずっと好きでいる性格も多分昔からなので。拠点はおそらく音楽からもう変わらないと思いますが、その中でも今はジャニーズという名の沼に浸かっていようかと思います。

心の中に居続ける人

またメモとtumblerとここの棲み分けがわからなくなっています。そして性懲りも無くPCからタイピングで挑もうとしています。2年前の記事とか結構PCで書いてたんだけどな〜、、、。ただでさえ出来ないタイピングがもっと出来なくなっていることに焦りを感じているので、せめてもの償いとして今奮闘している。

Twitterの凍結が騒がれていますが、例外なく私もその一人でありまして。いや弱小アカしか持ってないし変に恐れる必要はないと思うんですけど(とか言って弱小なのに凍結したら草)、こうしてサービスが終了していくのかなあというか、終わる来るかもわからないけど、シンプルにTwitterが消えることに怯えています。2019年くらいからの思考の置き場所や記録する場所は全部Twitterだし…。

いや本当、Twitterに限らずデジタルの怖いところってこれだよな〜と思う。はてブロも勿論だし、ずっっと愛用してるtumblerも。だから結局紙媒体しか信じられないんですよって話。だから私はずっと日記も並行して続けているし、本当に残しておきたいことは全て紙にも書いてます。2014年に日記を始めた時も、デジタルを信用していないから、が理由だった。

 

前置き長。

 

”10代の多感な頃に触れたものは後の人格形成に大きく影響するし、自分の記憶の中でずっと参考となり続けていく。たとえそのものから自分が離れても。”みたいなことを書いている人を見つけて、非常に腑に落ちました。他者の考えによって自分の中で答えが出る感覚が気持ちいいし楽しい。思考を覗き見する感じ。それができるのがTwitterなんだってばよ………

 

私がずーーーーっと、もう本当にずーーっと、囚われて抜け出せずにいた[Alexandros]と川上洋平という人間。最近やっと呪縛から解かれて抜け出すことが出来ました。トータル3年くらいかかった。長すぎて笑えない。

どうして何を聴いても[Alexandros]と比べてしまうのか、重ね合わせてしまうのか。好きだったあの頃の気持ちも含めて、似ている似ていないで好きを判断してしまうのか。代わりとなるものを無意識のうちに探してしまうのか。[Alexandros]を抜きにしても、応援の仕方(これは完全に余談であり補足ですが私は売上や数字重視の応援がとても苦手で、リリースになると心が疲れます)、楽曲において使われている音、拭いきれない好みetc…、アーーーッちゃんと文字にすると途端に難しくなる。それら全てがここ1・2年自分の中にずっとあるテーマでした。

vvave.hatenablog.com

だけどこれは無意識に備わったもので、そんなものに思い悩む頃よりも前にこのようなものを書いておりました。

 

こんなにちゃんと書くような雰囲気を作っておいて、「そんなもんだよなあ」で済ませてはいけないとはわかっているのですが、詰まる所「そんなもんだよなあ」に落ち着く。そんなもんだし、そういうことなんでしょう。

私はこれからもずっと[Alexandros]然り川上洋平にいい意味で囚われ続けていくし、いつまでも思考の片隅で影をちらつかせているのでしょう。14歳という多感な時期に彼を見つけて、せまいせまい世界でたった一人、唯一信じていた大人。今でも思い返す度に勘違いして夢を見たんだなあと少し反省したくなるけど、あれは夢を見るには十分だったし、責められないなとも同時に思う。たった一人の大人に憧れて、夢を見て、進路を決めて。眩暈がしそうなほどの蒼さに溢れた危うげな選択は、ためらいも何もない10代にしか出来なかった。私の中にそれほどまで影響を与えた人間がいる、という事実が財産なのだと思ってます。だから今の私が風磨くんの考え方や生き方を聞いてもそれを洋平さんと重ね合わせてしまうだけで、直接的に影響されることはきっともうなくて。私はないものねだりなので、風磨くんが私にとってそんな存在だったらどんな影響を受けていたのかな、なんてこともたまに考えてしまうけど、10代の頃に信じて着いていった人が川上洋平で良かったと胸を張って言えます。

 

その先で、バトンタッチした人が今の風磨くんなのだから。

人は出会うべき時に出会うものです。そうなるように出来ている。

 

n回目

1年間のどんな季節よりも、季節の変わり目が好きだったりする。

秋から冬に変わる時、冬から春に変わる時。

一瞬しか顔を見せないからこそ、余計に。

そして案外人は季節が変わった瞬間に気づくもので、外に出て空気の匂いが変わったとわかるあの瞬間が懐かしい気持ちにさせて、好きだなあと思ってしまうんです。

 

久しぶりに頭がしゃべっているので、こういう雑談みたいなものを書きたくて文字を打ち始めました。こういうのはtumblerに書くべきものなのかもしれないなあと思いつつ。最近書き残す場所が迷子になり始めてる。怒涛の年末更新だって、ああいう脳みそから直結してるような言葉たちはtumblerでしょう?なんて思ったり思わなかったり。

 

 

季節の話から派生して。

過ごしやすさという意味でずっっっと冬が大好きだったけど、暑いからという理由で忌み嫌うほど夏が嫌いだったけど、夏という季節に風磨くんが登場するのなら、もっと言えば夏という季節がきみになるのなら、どんな季節よりも夏が一番かもしれないとか思ってしまいました。

”これから先、夏が来るたびに好きになったことを思い出すのなら夏も悪くないな”なんてことを好きになった時から考えていたけれど、それはあくまでも”好きになったことを思い出す”だけであって。だけどなんだかもう、その範囲を軽々と飛び越えてきたというか、思い出すとかじゃなくて、もう、ふうまくんが夏。夏そのものがふうまくん。いやなにを言ってんだって自分でも思うけど。

好きになった季節を一旦抜きにしてもふまパラといい、時かけといい、風磨くんはやっぱり夏の人で。毎年夏が来ると喜んでるし、夏の終わりが見えると寂しそうにするし。そう、夏が似合うひとなんだよ。そんな風磨くんをどうして私は夏真っ盛りの8月に好きになってしまったのだろうかと。どうして初めて会えた日が七夕なんだろうかと。好きになるタイミングなんて他にもたくさんあるし夏じゃなくても可能性なんて十分あったはずなのに、ピンポイントで夏。あまりにもよくできた話で、運命なんてないのに勝手に運命めいたものを感じて泣きたくなってしまう。

 

夏の金髪姿を見ると勝手に恋が始まるし、チャラそうにしか思えない見た目にどうして好きになったんだろうかともう、n回目ともなることを考える。いやもともと金髪は好みなんだけどさあ。あのパリピみたいなビジュアルで、突然恋に落ちたように好きになった自分がずっとわからないよ。もう一生わからないので一生悩んでいてください。

 

季節そのものが自担になってしまったら、いつかさよならをした時が来たとしてもずっとずっと引きずりそうだよねえ。そういうおとこだよねえ。ふうまくんって。

 

 

とうとう季節にまで自担を置き換えてしまいまして。

こうして逃れられなくなっていくんだろうなあと一抹の恐怖を覚えながら、締め。

 

祝辞

 

 

2023年1月1日

まるで門出を祝うような、雲ひとつない快晴。

 

絶対に笑顔で送り出すんだっていう想いが伝わってきたから、泣かないで見ようって決めてた。RUNで勝利くんが泣きそうになってるのを力強い歌声でカバーしてるのも、"誰もいない交差点の中"で一瞬顔を歪ませた風磨くんがいたこともわかったけど、泣かないで見ようって。

だけどケンティー

"わからないままの僕ら

 それでも 何かを 楽しんできたよ"

って歌詞を変えて、その後カメラに抜かれてるのにも関わらずマリちゃんの方を向いてる勝利くんとケンティーが立て続けに映ったのを見て、堪えてた涙が一筋だけ流れた。

11年間という年月の中で、5人でちゃんと活動ができたのはほんの一握り。決して楽ではなかったと思うし、良いとは言い切れない時間があったことも事実。でも、全部楽しかったんだよ、素晴らしい日々だったんだよ、だから今ここから笑顔で旅立てるし、送り出せるんだよっていうふうに聴こえて。

ああ、なんて最高の祝辞だろうかと思った。

 

勝利くんをセンターにして、ふまけんと聡マリという 宿命を背負ったシンメと運命を背負ったシンメが同時に2つも並ぶ、奇数なのにバランスのいい、誰にも代えられない立ち位置を目に焼き付けなきゃと必死だった。最後だって知ってるから瞬きもしないで焼き付けるように見たのに、私の頭は物分かりが悪いそうで、最後だなんて考えられなかったよ。矛盾してると思われるけど、だってあまりにも完璧で何の違和感もなかった。これが紛れもない完成形であり、正解の形なんだと痛感したから。

 

 

嵐のような5日間だった。5日間で一年分の涙を流したんじゃないかというくらい、泣いては笑ってを繰り返していたら、当たり前のように大晦日はやってきて、何食わぬ顔で年は明けた。怖いのが、年が開けてから今もなお、涙が出てこないこと。年が明けてすぐ、深夜にTwitter『私はいつも、いなくなった時にもう戻らないんだと本当の意味でわかる。やっとそこで実感する。私がちゃんと分かるのは、一体いつになるのかな。』なんてことを残したけど、一日も終わろうとしている今、そうじゃないのかもなあってぼんやり思った。

本当は4人でも大丈夫ってとっくにわかってて、彼らならどんな気持ちもきっと置いていくことなく、全て未来へ連れて行ってくれるってわかってた。わかってたっていうか、信じることがとっくに出来てた。あんなに素敵な送り出し方をしてくれたんだもの。お互いの未来を信じないわけがない。

だけど、もう見れない5人の姿を見て悲しくなれるのはこの5日間しかなかった気がして。最後の時間を一緒に過ごして、感情を共有できるのはもう出来ないかもしれないって頭のどこかで気づいていたから、思い残すことを作ったら最後な気がしてとにかく必死だった。せくしーたちがくれるものも、そこから自分が抱く気持ちも、全て取りこぼさないように、見逃さないようにってSexyZoneに全振りした。考えなくなったらなんか自分の中から忘れちゃう気がして、それは嫌で自分からもずっと考えてた。27日の時は残り数日しかないなんて思っていたけれど、いざ過ごしてみたらたった5日間とは思えない濃さで、怒涛の日々だったね。流れる時を止められない残酷さも過ぎていく日々の切なさも感じたけど、ちゃんと幸せだったんだよなあ。メンバーからも一分一秒も絶対に無駄にしないんだ、っていう想いが伝わってきて忘れることのない5日間を超えた今、やっと情緒が通常運転に落ち着きました。感情が凪のように穏やかな状態は、そこにあるんだと思う。

 

 

寂しさも痛みも全て抱えて共に高く飛ぶんだ、という決意の表情をしていた4人は、きっとさらに強くなるのでしょう。誰にも邪魔できない、壊せない強固な絆を手に入れたんだもの、弱くなったなんて言わせてたまるか。

 

 

風磨くん、私はあなたのファンなので、やっぱりあなたが一番心配になってしまいます。今日という時間をどんな気持ちで過ごしているのか、そしてこれから先の日々をどんなふうに構えて待っているのか、私たちには知る由もありません。あなたの哀しみを分けてもらうこともできないし、励ますこともできません。何もできない辛さに泣いています。私が涙を流す理由はきみの悲しみにあるんだと、今改めて思い知りました。あなたは言葉を使える人でありながら、立ちはだかるものに対してきっと行動で示していくのでしょう。誰よりも祈っていたあなたをファンはほんの少しですが知っています。その祈りは無駄じゃなかったと、決して無力ではなかったと、あなた自身が思ってくれていたら幸いです。こんな心配なんて無用なくらい、悲しみと向き合えていますように。きみが進めていますように。きみが進む未来が照らされていますように。新しい夢が見れる日々が、その夢が叶う日々が、訪れますように。

祈っています。そして信じています。どんなものよりも、あなたの言葉だけを、ただ真っ直ぐに信じています。強くまっすぐな愛で応援しています。大好きだよ。

 

2023年も、風磨くんが大好きなSexyZoneと一緒に夢を見ていたいな。

マリちゃん行ってらっしゃい。

5人全員の未来にどうか幸あれ。

 

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12/31

 

 

あまりにも信じがたくて、分かったようでなにも分かってなくて、ただ夢みたいな5日間だったな。たぶんこれをカウコンが始まる23:45くらいまで思ってるんだよ。でもねえ考えなくなるほうがなんか寂しくて、ちゃんと向き合わなきゃいけない気がして、自分で考え始めては泣いて、を一人でずっと繰り返してる。考えてなきゃ実感が湧かなくなっちゃうからだと思うんだけど。

本当の意味で表記が"4"になってしまうんだと。聡ちゃんのシンメがいなくなってしまうんだと。立ち位置が4人で固定されてしまうんだと。これから先4人がどんな描き方をするのかはわからないけど、プロフィールからも消えて、戸籍上では4人のグループとして活動していくんだと。全てすべて、もう二度と見れないし戻らない、過去のものとなってしまうんだと。27日にも書いたけど、過去にあったメンバーそれぞれの祈りは、もう、祈りにもなれないのだと。わかっていても、目に見えて現れる変わってしまう事実にどうしようもない辛さを覚える。それを考えるたびにどうしようもない喪失感でここから進めなくなりそうになる。どろすの時もそうだった。あの時私が1年2ヶ月もかけてどうにか飲み込んで整理したものを、たったの5日間で行えなんて無理があるよ。って、言いたくなる。わかってるよ、全部わかってるんだけどさ。

不思議だなあって思う。5人の頃を見たことがないのに、4人の姿しか知らないのに、なんでこんなに寂しくて涙が出てくるんだろうって。たとえそこにいなくても、5人だよって示し描き続けることに、ちゃんと救われたいたし意味があったんだと改めて知る。彼らの努力以外の何者でもない。2年前の嵐が活休する直前の大晦日もそうだったんだけど、私がたとえどんなに活休や今回の卒業に関して何も思っていなかったとしても、自分の推しが悲しみに暮れているのを見ると、それが辛くさせる。二宮くんの時はまさしくそうで、二宮くんが初めて本音をこぼした12/31にあの時初めて泣きました。今回もそれは多少なりともあるなあと。変な話私がどんなにどうでもいいと思っていてもね、メンバーが寂しそうに悲しそうにしているのを見ると、自分も同じ気持ちになる。だから結局さみしいんだよ。理由なんてなにもなくて、素直に寂しい、それだけなんだよ。SexyZoneが好きだから。それだけ。本当にただ、それだけ。自担は風磨くんだけど、風磨くんが一番好きだけど風磨くんさえいればどうでも良いとかじゃなくて、ちゃんとグループとして好きだから、こんなに寂しいんだって。

メンバーがずっとSexyZoneを守り続けてきてくれたから、それに着いて応援してきてくれた人たちがいるから、今の私が今のSexyZoneと出会えたんだよ。ここまで繋いでくれてありがとう。あなたたちの愛は天下一品です。さみしいのに出会えてよかったあって、ほらね、悲しみと幸せが同時に存在する。

みんなで愛を持って守り続けてきた 5 が、ひとつ、旅立っていくんだね。例えばこれが、自分のやりたい事と違うから・想像と違ったからって言って2、3年で誰かが辞めてしまっていたら、同じふうにメンバーが減る日が来たとしても、こんな門出のように送り出す日は来なかったんじゃないかなあって。みんなで歯を食いしばってここまで辿り着いてくれたから、その道中でそれぞれを尊重して認め合えるようになったし、だから今こうやって、愛を持って送り出そうと決断できたんじゃないかなあって。そして4人でグループを守ろうって思えたんじゃないかなあって。こんな日がくること想像なんてこれっぽっちもしてなかったと思うけど、寂しいはずなのに今確かに在る愛は、11年かけて築き上げた、SexyZoneにしかない力だよ。きっとそう。もう一度、あなたたちの愛は天下一品です。

年の瀬の締めも兼ねて。数多とあるグループの中で、あなた達を好きになれてよかった。風磨くん、あの時SexyZoneの架け橋になってくれてありがとう。出会わなかった人生よりも、出会えてよかったと思える人生。そっちに賭けてよかった。

 

さみしさを超える幸せがあるのは、きっと。

12/28

風磨くんが泣いたらしい。

誰よりも一番泣いたらしい。

そしてそれを風磨くんも認めた。

 

あの、どんなに目に涙を溜めても頬を伝わない限り「泣いてない」と言う風磨くんが泣いて、風磨くんも泣いたことを認めてた。グループの出来事で初めて泣いたんだって。誰よりも泣いてたんだって。そんなの、ねえ。どうしたらいいんだろう。だけど不思議と少し嬉しかったな。ちゃんと腹割って話せるようになったし、甘えられるように多分なったし、なにより、SexyZoneになれた。「ふうまくんは周りに話を振ってくれるけど自分のことはあんまり話さない、僕はふうまくんを心配してるよ」ってマリちゃんが言って、ふうまくんは?っていつもさりげなく聞いてくれるの、過去の映像を見るたびにすごくすごく嬉しかった。もうそんなマリちゃんもいなくなっちゃう、うーん、やっぱり、寂しいね。MCどんどん上手くなってるな〜って思うけど、風磨くんこれからも自分のこと話してね。たまにケンティーとかが菊池は?って聞いてくれたらちゃんと話してね。Dreamの歌詞がどんな日よりも一番重たく刺さって、朝から泣いた。"繋いだまでいれたらいいね 何度離れ離れになっても 慣れない世界で君を見つけて それだけで何もいらないでしょう"これだけは、変わらず残り続ける願いだと信じていいですか。CRYの2番の歌詞もイノセントデイズも、君だけForeverも、全部ぜんぶせくしーたちに当てはめてしまう。全部特別に聴こえる。こんなに歌詞が心に響いたの、初めてなんじゃないかって勢いで。恋愛ソングの歌詞ってオタクの気持ちにも当てはまるな〜なんて限界オタクの思考でよく考えていたけど、真面目なことを言うと根底にあるものは愛なんだから、共感できて当たり前じゃんって話。せくしーたちが今リアルタイムで5人でいる姿を見るたびに、残された時間を一分一秒たりとも絶対に無駄にしない、絶対に笑って楽しく幸せに過ごすんだっていうのが伝わってきて、それが終わりを予感させてしまって、切なくなるよ。何度も言ってきたお決まりの挨拶、「以上、SexyZoneでした!」でさえ終わっちゃうみたいで嫌だよって言って、「今日もSexyZoneでした!」にする?とか謎提案まで生まれてちょっと可笑しくて笑っちゃったのに、本人たちは本気で考えているもんだから愛おしい。終わっちゃうのに、終わりたくないなんて、終わりを考えちゃうようなこと言わないでよ〜なんて寂しくなる。彼らが終わりを意識して愛をくれるたびに、現実を突きつけられて、少し心が痛い。カウコンとは別に5人だけのコンサートが残されてるって、すごく救いだなって思った。卒業となる日までの花道がちゃんと用意されてる。隙のない優しさに泣きそうになるよ。

 

大事にしまった 言葉の memories

優しく厳しく導くサーチライト yeah

きっと大げさな事ではなくて

愛なんだ あなたが 教えてくれた

想像通りにはいかなくたって何度だって go again

この声が枯れたって try

光と影を引き連れて そう前へ前へ前へ

もっと go ahead

素晴らしい旅の途中

(CRY)

 

記憶の迷路に置き去りの夢さえ眩しく見えて

どんなちっぽけな心のかさぶたも

無駄じゃないって思えてる

白い絵の具に紛れた黒が 少しずつ育ってくけど

それでいいさと 憂鬱も愛していこう

僕なりの今を

この広い世界のなかで 君と出会えた季節を

ずっと ずっと忘れないよ

難しいことじゃなくて 心が感じるままに廻る

イノセントデイズ

風の匂いも時の速さもやがて変わり続けてくから

今を君と強く手と手繋ぐ いつまでも

誰かと過ごす時間も 誰かの為の痛みも

きっとすべてが宝物

振り返ることじゃなくて 未来を描き続ける光

イノセントデイズ

(イノセントデイズ)

 

愛はここにあるんだよ 愛しか救えないんだよ

星さえ見えない夜も 月に凍える夜も

(君だけForever)

 

もしも君が負けそうなとき

迷わず僕に 聞かせてよ 一人じゃないよ

心には 距離なんてない

(Congratulations)

 

 

12/27

 

 

でも、やっぱり好きだなあって思った。

ちょっと覚悟してた自分と、驚いた自分と。やっぱりFC動画を見たら涙が出て嗚咽が出るほど涙がピークに達した時、ふと3年前の1月24日を思い出して少し怖くなったりした。ちょっとね、若干トラウマ。あれきさんどろすで色々あってあんな気持ちになるならもう何も好きにならない方がいいって思って、それで本当になにも好きになることなく1年近く経ったある日SexyZoneと出会った日があって。好きになった時からマリちゃんはいなくて、その時点で変な話こういう日がまた来るかもしれないってことは半分予想できたわけで、それを避けたいなら誰も欠けていない完全体のグループを好きになればよかった話で。でも、私は自分の意思でふうまくんを好きになったし、自分からSexyZoneを好きになろうと思ったし、それでも構わないって気持ちにさせて飛び越えてきてくれたのも、また彼らたちだったし。こんな言い方は良くないかもしれないけど、画としては4人の姿しか見たことがないからそれがデフォみたいなところもあって、それなのに向こうから押し付けでも誰かに植え付けられたわけでもなく、自発的に"SexyZoneは5人だ"ってたった1年4ヶ月の間でも思えていた日々があった。それって普通にできるようでできなくて、彼らの愛と言葉や想いの力で成り立っているものだと思うんだ。好きになった時から心の中であんまり5という数字に囚われないでおこう、って心がけてる部分はあった。5-1=0の考えも全然構わないと思うけど、多様性を重視する世の中と個人の意思を尊重する世の中の今、選択肢は無数にあって、オタクとして変わりゆくものを受け入れられる人になりたいって思っていたから。せくしーたちは特に。"まずは自分の人生を幸せに生きようね"がスタンスの彼らなんだから、違う道を選ぶこと、そしてグループの形が変わることは決してマイナスでも崩壊でもないって私が思えるようになりたかった。もう素直に、分母が変わってしまってもグループを好きでいたかった。それだけ。それだけです。変わらないことも素敵だけど、変わらないことが美学ではない。マリちゃんは自分と歳が近いから、一人の人間として今生きている年齢をどう感じるかはなんとなくわかる気がしていて、11歳から22歳の間に夢が変わることなんて普通のことだし、一番自分と向き合って将来を考える10年間だと思うし、ぜんぜん、おかしいことじゃないよって思う。私が11歳の時に抱いていた夢なんて、今も憧れはあるけど普通に15歳で変わったし、その夢も今は見てないし、むしろ11歳で人生を決めるような岐路に立ってくれてありがとう。でも寂しいものは寂しくて、悲しいものは悲しい。けど帰ってきてくれたことが嬉しい。インスタまで開設してくれて、夢なのかと思った。悲しいと寂しいと嬉しいと幸せが同時にあって、ずっといろんな感情を行き来してる。脱退ではなくて"卒業"という言葉を選んでくれたこと。たった一言の言葉選びだけど、それでも与える印象はまるで違う。「5人で過ごした時間を少しでも残せるように、そしてそれをみんなに届けられるように」とインスタを初めてくれた。来年まで残るかは正直わからないけど、24時間で消えるストーリーではなく投稿をたった1日で14個もしてくれた。プロフィールの画像欄が本当に卒業アルバムみたいじゃんって思って投稿されるたびに泣いたよ。全てが愛で包まれてる。何度目かわからない、またもやせくしーたちからの愛で窒息死するところだった。

ふうまくんの言葉をまた思い出してる。「5人がいいから辞めないでくれなんてそんなことは言えない。だからもう祈るしかない。」「5人でいられるように祈っていてください、僕も祈ってます。」もう、何回目だろうねこの言葉思い出すの。ああ、叶えてあげられなかったなって思った。それを思う瞬間だけ、比べ物にならないどうしようもない辛さを覚える。どう足掻いても風磨担で申し訳ないが。これは2年前の言葉だし、今のふうまくんはまた変わっていると思うけど、確かにあった祈りはもう、祈りにもなれないんだと。わかってる、全てわかってるよ。だからこれからが大切だしこれからが怖いって。向き合うことになるのはきっと来年からで、これからの3.4ヶ月がちょっと戦いなんだろうなあって覚悟してる。これは宗派の問題で、着いていけなくなる人もいるだろうし立ち直るのが早い人もいるだろうけど、私は多分というかぜったい、好きでいるんだろうなあと思います。寂しさに苛まれて潰されそうになったとしても、きっと好きでいる気がします。希望的観測。風磨担だからというのもまあ理由にはあるけど、該当担だったら正直降りてると思う…な、どうかなあ、でもそうだねえ、風磨担だからそう思えてる部分は確かにある。だけど偏った単推しにしかなれなかった自分が、グループとして好きだと思えたのは紛れもなくSexyZoneが初めてで、ふうまくんが好きだけど、風磨くんが愛するSexyZoneのこれからを見たいと思い続けるんだろうなと。でも寂しい。文の中でさえ気持ちがぐるぐるしてる。本当にこの繰り返しで、泣いたり笑ったりを1日の間で何度も行き来してて情緒がかなりきてる。おかえりなさい。帰ってきてくれてありがとう。やり残したこと、全部叶えにきてくれてありがとう。5人でいる姿があまりにも眩しくて、輝いてて、今までにないくらい本当にキラキラしてて、その反動で一気に襲ってくる寂しさ。夢みたいだよ。夢みたいに消えてOK?じゃないからね。でもたった5日間しかないかけがえのない日々。もはや夢じゃん。

12月27日から12月31日まで、たったの5日。

2022年のどんな日よりも尊くて、幸せで、多分ちょっと切ない、大切な5日間。この5日間があるならほかの日なんていらないくらい。終わってしまうんだな。過去になろうとしているんだな。幸せの狭間で気づいてしまう寂しさに、心が悲鳴をあげてる。