ひとりごとの記録

主に音楽、アイドル、菊池風磨くんのオタクのひとりごと。

神様にできない

全然意識していなかったけど丸々3ヶ月も書かなかったの初めてだった。まだ体感9月なのに11月になっちゃったし、5年ぶりくらいにちゃんと書こうと再開した日記はまともに書けてないし、手帳を開くことも一気に減って、なんというか自分と向き合うことと逃げていると言うよりは、そもそも全てにおいて考えるということをやめてしまっている。気持ちを書き留めておくことをずっと放棄していて、向き合う以前の話のような。

 

なんか、どうしたら戻るかなー。

 

10月は聡ちゃんの個展に行ったり、キリエのうたが公開されたり、せくしーたちがグループ名を変えることを発表したり、ドームツアーの当落があって福岡が3名義で重複したり…、あとゼイチョーが始まった。

 

でもこの2ヶ月近く、どこか自分を見失ったような感覚にある理由はなんとなくわかってて、しょせを好きになってJO1ばかり聴いたり見たりしているからなんですよね。そうでしょう。好きになる瞬間はいつも躊躇いがちなのはお決まりだけど、しょせはそれが凄く長い気がするし、なんなら今も続いてる気がする。いつも誰かのオタクになる時は、わかりやすく言えば自分の中で「よし好きになろう!」というか、自分の中で一回大きくギアを入れるタイミングがあって。めっちゃ体育会系みたいだけど、ゆるく好きになるところから始まるから、どこかで切り替える瞬間を作らないと自分の中で始まらないというか。自分で書いてて儀式みたいじゃんって思ったけど、アイドルの概念が神であり信仰のようだと捉えている部分があるのであながち間違っていなのかも。

そういう瞬間が来ないというよりは、作らないように、踏み込まないようにしている気がする。うーん、好きになったことを認められないと表現する方が正しいかも。何も減るものなんてないのに推しだとなかなか認められないのはどうして。気になったはじめの頃に、「これは好きになったら界隈ごと移動する可能性あるな、それは嫌だなあずっとジャニオタでいたい」って思ったのは確かで、簡単に言えば今まで好きだったものが終わってしまいそうな怖さというか。その気持ちは北斗くんを好きになる時もあったし、多かれ少なかれ新しいものを好きになる時には抱く感情だから珍しくないはずが、これが界隈が変わるとなるとまた別なんだろうか。ドロスから二宮くんに移るときと似ているのかも。あれはなんか特例だったけど。

でも今回も2ヶ月前の今頃といったらジャニーズが会見をして、これから色々なことが大きく変わるんだなっていうのがわかったし、とにかく混沌としていた時で。自分で情報の取捨選択ができないと無条件に傷つけられるような状況で、変な話このままジャニーズごと嫌いになってしまうんじゃないかとも思った。こんな理由、ではないけれど、自分が所属タレントを好きな気持ちとは少し離れた理由で嫌いになるなんて絶対に嫌なのに、そうなってしまいそうなくらいやっぱり辛くて。なんとなく直感で、このまま今の騒ぎを見続けていたら自分の心がやばいかもって思った。

だから少しだけ距離を置こうと思ったその先に、しょせがいて。これはこれでちょっと危ない出会い方だなあとも思った。風磨くんがそうであるように、逃げ道になってしまう=運命とか神様だと思いたくなる理由になってしまうから。そうなると本当に界隈ごと戻れなくなってしまうし、辛かったけど事務所が袋叩きにあっている時だったからこそ、罪の無い自担たちを守るために応援したい気持ちがあって、彼らを好きでい続けたいと意地になっていた部分もあったんだろうな。特にせくしーたちはシングル発売を控えていたからなおさら。

「いつか好きじゃなくなる時が絶対に来るってわかった上で好きでいる」って散々言って応援しているくせに、執着しないようにいつかは終わりがくると構えて好きになったのに、ほら、結局できない。囚われの身にしているのは自分。ある日に”運命と決めたのは君だけ”と残したけれど、唯一を言い換えた呼び名に彼だけを当てはめ続けてきた時点で、本当はもう無理だったのでは。

そういう意地が邪魔をして、元から好きでいたものたちも一緒に追いかけようなんていう傲慢さが、好きを認められないままここまで来ちゃった理由の一つのような気がする。最推しにならなくても、一回どこかで全てを捨てる勢いでしっかり好きにならないと認める域に達さないのは自分でよくわかってるはずなのに。

 

それとは別軸で、私はしょせのことをアイドルとして見れていないのだと最近気づいた。アイドルとして見ることを申し訳ないと思う、という方が正しいか。いろんな動画を身漁ったり最近のレポを読んだりしても、どこか沸ききれないというか、遠巻きに見ている感覚が抜けない(そしてそれがちゃんと好きになれないに繋がる)のは多分これが理由なのだろう。

こんな感覚は初めてで、だからこそ頭の片隅でずっと引っかかっていた。ステージに立つ人になりたくてオーディションを受けたのは当然として、その先が今のようなアイドルだったのだろうかと。雑誌や動画の企画にせよファンサにせよ、アイドルらしい解答を求められている瞬間を見るたびに、無理やりアイドルの鎧を着させてしまっていないかと考えてしまう。

私が思うにアイドルというのは、数あるアーティストの中でも応援スタイルがかなり特殊だと捉えている。最近は推し活ブーム(大嫌いな言葉)もあってアイドルに限った話ではなくなっているかもしれないけど、本人の意思や性格とは別で、ファンの理想を託すことが許されている、つまりそういったものを背負う覚悟をしてくれている存在。

私たちが信じている絶対は、信じていたいことだけをかき集めてできた実態のないものであること、 なにより、 私たちが見ているステージ上に立つ彼らは、自分の理想や概念で形取られた 虚像を纏った生身の人間である ということを、3次元を推す身として忘れてはいけないのだと再度思った

3次元を推す - ひとりごとの記録

息をして、血が流れて、絶対に生きている存在なのに、私たちは彼らの実態を掴むことができない。同時に彼らも、彼らだけの呼吸では壇上の存在にはなれない。私たちの信仰にも近い彼らへの眼差しがあって、それらが交わった瞬間にアイドルとしての光が生まれる。 私たちの中にある数々の理想、解釈、願い、そういったものが彼らのアイドルを形作っている。言葉にしがたい実像のないもので、彼らは存在している。

アイドルは虚像である、という持論 - ひとりごとの記録

結局、推しというのはただの偶像に過ぎなくて。 歌を通して、お芝居を通して、インタビューを通して、推しのことを知ったとしても、それはあくまで「情報」を受け取っているだけ。そしてオタクはその情報を、そのオタクなりの解釈で噛み砕いて自分に取り込んでいくんです。きっと。 だからオタクそれぞれで推しに対する解釈というのは微妙に違くて、自分の解釈というフィルターをかけて推しを見ている。 言葉だけ取るとかなり残酷だけど、私はそれこそが推しでありオタクの醍醐味だと思っています。対象物が、その理想を当てはめる推しと言う名の偶像だから許される。

命をかけるようにオタクをするということ - ひとりごとの記録

過去に何度も残しているように、アイドルはその人間の実像よりも私たちファンの理想を背負って生きてくれている虚像だと私は思い続けていて。ステージに立つ瞬間がアイドルに生まれ変わる瞬間だから神様だと思っているし、表に出ている姿だけを信じている。

でもそれって、とても命を消費させる行為だとも思う。応援しながらも「ありがとう、そしてごめんね」という気持ちが自担に付き纏ってしまうのは、彼らの命を食べている自覚があるから。それでもそれを承知で自らアイドルを選択してくれているのだから、こちらも胸を張って応援するのが筋なのだという結論に今は落ち着いているけれど。

そういった信仰に誓い眼差しや、一方的な理想の押し付けのようなアイドルの鎧をしょせに着せてしまっていいのかと、心配というよりも罪のような申し訳なさがずっと拭えないでいる。

じゃあなぜジャニーズに所属していたアイドルたちにはそういった気持ちを抱かなかったのか。これは私の中にある多少の偏見が関わっているのだけれど、やっぱりアイドルといったらジャニーズ、日本のアイドル界のど真ん中にいたのはジャニーズみたいな認識があって(自分がジャニオタ故の偏見だとも思っている)。だからこそジャニーズにいた人達には「絶対にアイドルになりたい」というアイドルに対して強烈なこだわりを持っているように感じていて。

パフォーマーやアーティストになりたいというこだわりではなくて、”アイドル”になりたいというこだわりの話。ステージに立ちたいと思った時多くの選択肢がある中で、アイドルになる事務所を幼少期から選んでいる事実が、彼らをアイドルとして見て大丈夫という心の免罪符に無意識のうちになっていたのかもしれない。

ただこれは、決してジャニーズでないしょせを卑下している訳ではない。応援しながらも「ありがとう、そしてごめんね」という気持ちが自担に付き纏ってしまうのは、彼らの命を食べている自覚があるから。それでもそれを承知で自らアイドルを選択してくれているのだから、こちらも胸を張って応援するのが筋なのだと落ち着いているけれど。と前述しているように、しょせも自分で今の環境を選んでくれているのだから、ならばその道を真っ直ぐに応援してあげるのが彼への報いになるのではないかと思う。

 

もう一度言うように、ふたつを比べたりどちらかを悪く言いたい訳ではなく、アイドルに対して私の思考のコンプレックスの原因を紐解きたかっただけ。結局どういうふうに捉えても生身の人間を応援するというのは、まともになろうとすればするほど簡単ではなくて、ステージ上に立つ人間に対して命を食べている申し訳なさが同居してしまうのも避けられないのだと。

 

まあでも、きっと全部全部私の要らぬ心配です。

(あ、好きになってしまう)が(好き)よりも甘い気がしてずっと噛んでる

っていうアイドル短歌を9/24に見つけた時、自分のことを詠まれているのかと思ってびっくりした。落っこちる瞬間が一番楽しいんだよね。あとは自分の気持ち次第なんだと思いますよ。知りたいって思っているのは本当。半年後あたりの自分に期待しましょう。

 

とりあえず祥生くんって呼べるようになりたいです。照れてる時点でまだ全然初心な証拠!